君が好きだから僕は書く

恒松エントのブログとエッセイ

「十五祭」とは何だったのか?

「十五祭」が終わりました。そして、関ジャニ∞が5人になります。

あの底抜けに楽しかった「十五祭」から、亮ちゃんの脱退と退所の発表は、ジェットコースターのようでした。ただ、そのコースターのレールが「十五祭」の延長線上に入念に敷かれていたことも、また想像がついてしまうのです。

ライブとしての完成度の高さ、あらゆる手段を使って全力で15周年という節目を明るくお祝いする6人の姿。その純粋に楽しい空間の中に忍ばされた、何か起きる、何か起きてしまう、そんなざわめき。15周年おめでとう、というだけではない何かを感じさせるそんなざわめきは、8人も7人もひっくるめて関ジャニ∞、という巨大な包容力を持ってしても拭い去れない、滲み出る血液のような鈍い痛みを感じさせました。

今振り返れば、という言い方は、結局どんな理由だって後からいかようにでも盛ることができてしまいます。でも、敢えて言うとすれば、それが、関ジャニ∞が考える15周年という記念と、5人になるという事実に対する、最大限の誠意なんだろう、そう思います。そう思うしかありません。

批判を承知で、明け透けに言ってしまうと、もしかしたらこれが最後の関ジャニ∞かもしれない、そういう気持ちで「十五祭」に参加したのは事実です。憶測で物を判断してはいけない、どんなに憶測が事実に近似していても、目の前で見る真実以外はすべて邪推。そうだとは十分わかっている一方で、すばるくんが抜けてからのそこはかとないモヤモヤと、「十五祭」が纏う、単なる15周年にとどまらないただならぬ雰囲気から、自ずとさまざさな可能性を覚悟して臨んだいたことは、僕自身の事実です。

しかし「十五祭」を見て、関ジャニ∞には未来がある、そう感じました。それが、どんな形の未来かわからない、もしかしたら形があるようでない形なのかもしれない、という可能性も含めて、関ジャニ∞は終わりではない、というメッセージが明確にありました。少なくとも僕のつまらない邪推は、本当につまらない邪推で終わりました。

直後の「5人になる」という発表は、結果として、その答え合わせになりました。その答えを元に検算してみると、彼らのここに至るまでの気持ちと、この先に対する想いが、後から怒涛のように押し寄せる波のように迫ってくるようでした。

その解答を導くしかなかった6人の痛みを思うと、胸が苦しいです。果たしてその感情で、15周年をお祝いできただろうか。そう考えると、彼らが最終的に下した選択は、15周年をエイターに心の底から楽しくお祝いさせてくれる、その上で、この先に起こるかもしれない痛みも、どんな形であっても関ジャニ∞は関ジャニ∞、そのメッセージを持って理解してほしい、という思いと両立させられる、唯一の手段だったのだろうと思うのです。

そんな痛い想いをしてでも、少し休んでもいいと思えてしまう状況でも、エイターの不安を強く振り払うように、直後から数段ギアを上げて進もうとしている彼らを、応援しない理由はない。それが僕の答えです。

「十五祭」は、最高に楽しい、15周年のお祝いでした。そして関ジャニ∞は、結成されてからずっと変わり続けながら、結成されてからずっと頑固なまでに変わらない、そんな気持ちを共有する場だったと思っています。改めて、15周年、心から笑ってお祝いさせてくれてありがとう。亮ちゃんの最後の姿を、笑って見させてくれてありがとう。16年目、たくさんぶつかり合って、たくさん笑い合って、体にだけは気をつけて…期待しかないです。